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実在の人物

関 右馬允(せき うまのじょう)

1888年-1973年。茨城県生まれ。社会運動家、作家。幼名、関三郎。太田中学校に在学中、日立鉱山の煙害に対し、茨城県の入四間(いりしけん)村(現・日立市)の煙害対策委員長に若くして就任。進学予定だった一高、そして外交官になる夢をあきらめ、明治44年から35年間、煙害防止と環境保全、そして補償交渉に取り組んだ。その姿は本作のほか、公害運動の先駆者として知られる宇井純の代表作「公害原論」(1971年)の中でも取り上げられている。関自身の著作には「茨城県巨樹老木誌」「日立鉱山煙害問題昔話」がある。

角 弥太郎(かど やたろう)

1869年-1965年。広島県生まれ。小坂鉱山を経て日立鉱山入社。庶務課長に着任(後に所長に就任)し、鉱山側として煙害被害の補償交渉に当たった。道義をもって事を貫く事を信念とし、誠意を持った交渉や迅速なる調査、被害が予測される地域への事前契約といった、当時としては先進的な方策を導入し、事態の解決に専心した。また、伊豆大島の噴煙地域に桜が自生していることを知り、苗木の植樹に着手、最終的には昭和7年までの18年間で、260万本の大島桜を含む500万本の植林運動へと発展させた。角の名は、諏訪台の桜塚にその名が刻まれている。

小平 浪平(おだいら なみへい)

1874年-1951年。栃木県生まれ。日本の技術者・実業家。株式会社日立製作所の創業者。第一高等学校を経て東京帝国大学(現・東京大学)電気工学科を26歳で卒業。藤田組(現・DOWAホールディングス)に入社し秋田県の小坂鉱山に赴任。ここで久原房之助と出会い水力発電事業に着手、2年を経て止滝発電所を開設させた。その後、東京電燈(現・東京電力)に入社、駒橋発電所(山梨県大月市)の建設とともに東京への送電に携わった。1906年に久原に呼ばれ日立鉱山に入社、鉱山鉄道や発電所の建設で自信を深め、今でいう社内起業によって日立製作所を創立。1910年に国産初の5馬力モーターを完成。続いて200馬力のモーターの開発にも成功。1920年には株式会社として独立し日本を代表する総合電機メーカーへと成長した。

久原 房之助(くはら ふさのすけ)

1869年-1965年。山口県生まれ。東京商業学校(現・一橋大学)、慶応義塾を卒業。森村組を経て藤田組に入社し、小坂鉱山に赴任。1905年に藤田組を退社、赤沢銅山を買収、日立鉱山に改称し開業した。「一山一家(いちざんいっか)」と呼ばれる風土を生み出し、従業員とその家族との連帯感を是とした。また同年に久原鉱業を創業。同社は後に義弟の鮎川義介によって日本産業に改称され、日本鉱業(現・JX金属)、日立製作所、日産自動車などを傘下とする日産コンツェルンを形成するに至った。久原は1928年に立憲政友会に入党、衆議院議員に初当選し、逓信大臣に任命。1939年には立憲政友会総裁に就任した。孫にシャンソン歌手の石井好子と元東急建設社長の五島哲、曾孫に詩人・フランス文学者の朝吹亮二が、玄孫に芥川賞を受賞した朝吹真理子がいる。